全国屈指の雨量を記録する馬路村。
豊富な雨量と温暖な気候のおかげで、良質な杉が育ってきました。
日本を代表する杉の一つであり、高知県の県木に指定されている「魚梁瀬(やなせ)杉」です。
特に天然木の魚梁瀬杉は、淡紅の色合い、ダイナミックでありながらもキメ細かい木目が特徴で、節も少なく、柱材や天井板などの高級建材として人気があります。
魚梁瀬杉が全国的に知られるようになったのは、太閤・豊臣秀吉の時代にさかのぼります。
豊臣秀吉が洛陽東山佛光寺に大仏殿を建てる際に、土佐藩主・長宗我部元親が献上したことが、元親の家臣であった高嶋孫右衛門正重が記録した「元親記」に記されています。
また、1815年(文化12年)高知市の豪商であった武藤致和・平道が、土佐の歴史などを記録した『南路志』には、魚梁瀬杉は第一の良材であって、豊臣秀吉が洛陽東山佛光寺に大仏殿を建てる際に、全国から良材を集めた中で、第一に土佐、第二に九州、第三に信州木曽・紀州熊野の順番で木材を選んだと記されています。
そして、土佐藩の御留山(藩の管理する山)として、亀谷山~赤度山まで、現在の馬路村の山林名が残っています。
大仏殿御材木の事 さる程に、国中の杣人、奈半利の奥、成願寺山へ入りて大木を杣取る。
さて、元親自身山入有りて、大名、小名以下百姓に至るまで、この山へ分け入りて、川滝へ大木を崩す。
数千人取り付きて、「ゑいやゑいや。」と引く声、谷峯までも響き渡り、天地も震動す。
或は大木に打たれ半死半生に成る者もあり、或は木に乗り、手廻し達者にして飛び廻り褒美をとる者もあり。
悉く川湊へ引き下し、船数百艘にて大阪へ引き上ぐる。
余国の材木より早く着く。
御褒美と有りて、米弐千石拝領有り。
成願寺は、馬路村の隣村・北川村にあり、大木というのが「魚梁瀬杉」だと言われています。
馬路村・北川村を中心に、魚梁瀬杉が伐り出され、馬路村・魚梁瀬地区が源流の奈半利川から太平洋まで流して、船で大阪まで運んだと記されています。
藩主自らが陣頭指揮に立って、伐採から細かく指示を出すほど、良質な木材であったことが伺えます。
明治時代に入ると、資源(住宅用材など)としての木材の需要が高まる中、馬路村の山々の多くは林野庁管轄の国有林となり、営林署直轄の事業として魚梁瀬杉が伐り出されました。
馬路村には、「馬路営林署」「魚梁瀬営林署」が在り、魚梁瀬営林署は林野庁の出世コースとして知られ、多くの方が魚梁瀬営林署長を経て林野庁長官に就任されました。
「魚梁瀬杉」が営林署・営林局の財政を支えていたことが伺えるエピソードです。
また、明治44年に国内3番目の森林鉄道が馬路地区に開通(その後、大正4年に魚梁瀬地区も開通)し、木材搬出の量産化が一気に加速しました。
馬路村、北川村、安田町、田野町、奈半利町の5町村を走った魚梁瀬森林鉄道の総延長は250㎞。
馬路村の山奥で伐り出された魚梁瀬杉は、国内最大規模の森林鉄道に載せられて、川下の街まで運ばれていきました。
当時の馬路村は、林業最盛期。
山で働く人たちで活気に満ち溢れ、現在になっても「信号機」「コンビニ」も無い村に、映画館があったというから驚きです。
山で働く人たちは、日の丸弁当を持って山に上がり、夜は宿舎でお酒を飲みながら語らい、そして週末になると、魚梁瀬の街に買い物に出かけ、娯楽を楽しむ生活を送っていたそうです。
また、森林鉄道は、木材だけでなく生活物資や人も運び、馬路村と川下の街を結ぶ唯一の交通機関として活躍していました。
「命の保証はしない。」という物騒なお触書がありましたが、村民は愛着を持って、森林鉄道を「ガソリン」と呼んでいました。
馬路村は1,000m級の険しい山々が連なっています。
このような環境に適した、「架線集材(集材機とワイヤーロープなどを山々に張り巡らせる方法)」と呼ばれる集材方式によって、魚梁瀬杉が集められ、森林鉄道に載せられていました。
当時の馬路村の架線集材技術は日本一と称され、その技術を習得するべく、日本中から多くの山師たちが集まってきたそうです。
「無駄のないように、そして何より安全であること。」
現在まで受け継がれてきた架線集材が、先人たちの知恵、経験、そして犠牲のうえに成り立っていることを忘れてはいけません。
魚梁瀬杉は、香りや品質の良さから、市場に出ると高額で取引され、村に潤いを与えてくれました。
長い年月をかけて育った良質な木材です。
伐り倒した魚梁瀬杉に大きな傷がついてしまうと、市場価値が下がってしまいます。
安全且つ、木の傷まない方向に正確に倒す技術が求められ、チェーンソーの無い時代は、ノコギリやオノなどを使い分け、1本の魚梁瀬杉を伐るのに、熟練の山師が二人がかりで一日以上かかることもあったそうです。
道具は益々便利になり、現在はどんな大木であっても、チェーンソーを使って伐り倒します。
しかし、道具が変わっても「伐り方」は変わりません。
代々受け継がれてきた「安全で正確」な伐り方があってこそ、価値ある木材になるのです。
昭和20年代に入ると、戦後の復興が進む大都市圏で電力不足が顕著になり、これを解決するべく全国各地の河川で水力発電計画が立案・実施され、全国屈指の雨量を誇る魚梁瀬地区から太平洋まで流れる「奈半利川」においても、昭和28年に、水力発電を目的とした「魚梁瀬ダム」の建設案が打ち出されました。
この建設案によって、魚梁瀬地区の集落が水没するだけでなく、魚梁瀬森林鉄道の軌道が方々で水没し、木材運搬が不可能になり、生業であった林業が崩壊するという問題に直面することとなりました。
住民だけでなく、魚梁瀬営林署や全林野などがダム建設反対の動きを取り、建設交渉は長期化しましたが、集団移転(現在の魚梁瀬地区)及び、魚梁瀬森林鉄道に代わる代替道路(現在の県道安田東洋線)の建設を実施することで折り合いがつき、昭和32年に魚梁瀬ダム建設に伴う森林鉄道の廃止が決定。
木材運搬は、トラックによる陸上輸送に切り替わりました。
そして、昭和38年、遂にすべての軌道撤去が完了。
村民の愛した森林鉄道は、輝かしい栄光と共にその役目を終えることになりました。
現在、復刻した森林鉄道が、馬路温泉前と魚梁瀬丸山公園内を走っており、乗車体験をすることができます。また、現在も残っている森林鉄道遺産は、近代化産業遺構群(経済産業省)、国の重要文化財に指定されています。
http://rintetu.jp/
森林鉄道軌道路線図や当時の映像など、魚梁瀬森林鉄道の魅力が詰まったWebサイトです。
馬路村魚梁瀬地区の「千本山」には、樹齢100年~300年の天然・魚梁瀬杉が林立し、一切の伐採などを禁じる「保護林」に指定されています。
また、千本山登山口にそびえ立つ「橋の大杉」は、平成13年4月に「森の巨人たち100選(林野庁)」に選ばれました。
高さ:54m、幹回り:6.8mの巨大な魚梁瀬杉が登山者を出迎えてくれます。
馬路村には、魚梁瀬杉の林立する千本山だけなく、「お化け杉」「朝日出山の大杉」など、いくつもの名勝地と、そこに息づく巨木を楽しむことができます。
また、山の案内人クラブに同行してもらえば、森にまつわる話や、馬路村のことなどを楽しい話が盛りだくさん!!
登山がもっと楽しくなること間違いなしです。
>>お問い合わせはコチラからどうぞ
【魚梁瀬山の案内人クラブ】
〒781-6201
高知県安芸郡馬路村魚梁瀬10-11
馬路村役場魚梁瀬支所内
電話 0887-43-2211
FAX 0887-43-2208
Mail yanase@mb.inforyoma.or.
森の育成から加工・販売、間伐材の活用を行っております。
売り上げの1%を馬路村が設立した「千年の森基金」に積み立てており、森林育成や保全活動に貢献しております。
主に「目標12:つくる責任つかう責任」「目標13:気候変動に具体的な対策を」「目標15:陸の豊かさも守ろう」に取り組んでいます。
※SDGs(エスディージーズ)とは「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称であり、国連サミットで加盟国193カ国が2016年から2030年の15年間に向けて達成するために掲げた17個の目標のことをいいます。